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メディアが礼賛するLGBTの光と陰

メディアが礼賛するLGBTの光と陰

2015年。
世界各地で同性婚を認め、パートナーシップ法が成立し、LGBTの世界は一つの分水嶺と言える年でもあった。しかし、そこには“光”と“陰”(文中では、あえて勝者と敗者という言い回しをしている箇所があるが文章を読んで頂ければ理解頂けるであろう)が存在した。

メディアが過剰に礼賛するLGBTの光と陰を、ターニングポイントにある今このタイミングで、ここに記しておくことに意味があると思う。

まず、ことわっておかねばならないのが、世界の国や自治体、企業までが同性婚を認め、賛同、支援する動きについては何ら口を挟む余地はない。それは、人類史上の大きな変革の一歩であり素晴らしいことである。

では、なぜ、“光”だけではなく“陰”があるのだろうか。多くの(“すべての”ではなく)LGBT当事者とLGBT当事者ではない人々は、同性婚が認められた、パートナーシップ法が成立したというメディアの報道に対して祝福を贈った。

もちろん、私も同様だった。
この言葉を聞くまでは。

私はモテないから、同性婚が認められても嬉しくない。

パートナーシップ法の恩恵を受ける“はず”のゲイの知り合いが、ポツリと言ったのである。

確かに今までは、同性婚対象のパートナーがいる同性愛者も、パートナーがいない同性愛者も“同性愛者”というくくりの中で一様に、その権利を享受することができなかった。もちろん、同性婚を認めるということは、すべての同性愛者に対して権利を認めることなので、パートナーがいる、いないは関係ないといえば関係ないし、現時点でパートナーがいない同性愛者も、将来、パートナーができて同性婚ができるかもしれないのは言うまでもない。

ここで重要なのは、今まで法律や慣習というルールの中で結婚など考えられなかった人々が、いきなり結婚について考えることができるようになり、そこに、温度差ができてしまったことである。言い換えると、同性婚対象のパートナーがいる同性愛者は勝者、同性婚ができない同性愛者は敗者という構図を知らずと作ってしまった。
既視感を覚えたが、俗に言う結婚適齢期を過ぎた未婚の人々、特に女性を指す場合が多いようだが、その人々を「負け組」と揶揄するような構図である(勝ち負けではないことは言うまでもないが)。

否。単にパートナーがいない人々が同性婚の陰だと結論付けるには早計かもしれない。

少し視点を変えて同性婚をとらえてみると、同性婚を待ち望んでいたという人々も当然ながらいる一方、どこか、トレンドとして、特別なものとして取り上げる風潮に違和感を覚えることがある。
それは、パートナーシップ法ができても、その権利を行使せずに、つまり、今まで通り結婚せずにパートナー関係を継続するカップルが多数いる事実があるからだろう。同性婚という崇高な光があたる裏側の陰の部分には、あえて同性婚をしない人々が多数いるのである。

また、同性婚ができるようになったことで“離婚をする”可能性が生まれたことは、今、同性婚をして光があたっている人も、もちろん、特別な理由がない限りは離婚しないにこしたことはないので不吉なことを言いたくないが、将来、陰にまわるリスクを持つことになったという両刃の剣の理解をしなければならないのである。

そう考えると、同性婚を認めることやパートナーシップ法は、光をもたらす他方で、光があるところには陰ができてしまい、そもそも不要だったのかと思ってしまう。
しかし、そういうわけではない。この大きなうねりは、まさに闇夜から太陽が昇るように多くのLGBTの人々に光を与え、太陽が照らさない部分には陰ができたのかもしれないが、今後、太陽は角度を変えて陰にあった人々にも光を与え、すべてのLGBTの人々に平等に光をもたらすものになるだろう。

我々が考えるべきことは、このムーブメントには今は痛みを伴う部分(陰)ができてしまうが、将来、すべてのLGBTの人々に光をあてるために、大きな変革を一過性のもので終わらせないようにしなければならない。同性愛者の結婚のことを「同性婚」という風に区別するのではなく、同性愛者の結婚も単なる「結婚」というように同一に扱うことができるように、社会の中で、長い年月をかけて、根付かせていくことが重要で、その最初の一歩を踏み出したにすぎない。

2020.07.09

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いろいろな職種と人種と性別で構成されるglassgempopcornのメンバー。